こんばんは。鏡でございますm(__)m
最近、夜のNHKニュースで『無縁社会日本』というテーマで、特集がシリーズ化されて放送されています。
ご存知の方もおられるかもしれませんが、その初回放送を見てショックを受けたので、本日の言葉は、
『無縁社会』です。
現在、単身化が進んでいるのだそうです。
特に団地では。
ある団地を取材してあるのですが、そこは入居者の3割が単身世帯でした。
“独居老人”“孤独死”という言葉は最近では珍しくはありません。
中高年男性の単身化が進んでいるそうです。
また、働き盛りの中年男性の単身化、突然の引きこもりなども増加しているとのこと。
この放送を見て、『無縁社会』は、命の安全をも脅かすんだということを知りました。
単身化が進む団地の住人(単身世帯中年男性)へのインタビューで、とても心に突き刺さった言葉がありました。
「人との繋がりを失ったら、自分が社会に存在していないことと同じ」という言葉です。
正直、今の私は、この方の辛さがどれだけのものかがわかりません。
“人との繋がりを失う”ということが、私にとっては非現実的だからです。
考えられません。
身近なところで、「家族」「親族」「職場」「仕事関係」「学校関係」「ご近所、町内関係」「子どもの学校や習い事関係」「かかりつけの病院」「良く行く定食屋」「近くのお弁当やさんのおばちゃん」「異業種交流会のメンバーの経営者さん達」「昔の職場」「古い知人」「福岡へ研修に行った時に使う駐車場のおじちゃん」などなど・・・・。
改めて挙げてみると、こんな私でもこんな沢山!
と驚くほど“繋がり”はあるのに、『無縁』ということが信じられません。
なんで、『無縁』になってしまったんでしょうか・・・。
「誰も電話をしてこない」
「手紙も1通もこない」
「誰も尋ねてもこない」
「足腰が痛くて外出できない」
「リストラに遭って、収入が途絶え、離婚し家族との連絡もとれなくなった」
「知人に頼んで1週間に1度、自分の安否確認のために電話をしてもらっている」
「室内に長時間人の動きがなかった場合に通報するセンサーを設置している」
「孤独で、不安で、自殺未遂を何度もした」
「夜寝るときは、家の鍵は掛けず、チェーンを切れば部屋に入りやすいよう、チェーンだけにしている」
など、人との繋がりを失った人達の現状が放送されていました。
この映像を見た有名な映画監督さんは、
「“絆”は面倒くさいもの。まず、それを理解すること。しかし、それを乗り越えて人間関係を築いていかないと、“絆”は生まれない。」
と言ってました。
確かに!
私もそう思います。
人付き合いは面倒なときもあります。
私の周りでも、人との繋がりを持つこと(維持していくこと)を面倒くさがっている人も多くいると感じます。
今の現状を思うと、昔から日本にある慣習は人との繋がりを維持することそのものではないかと思います。
昔の人々は、“人”を“絆(縁)”をとても大切にしていたんだなぁと思います。
油断すると(自分の感情のままに生きていると)、自然と『無縁社会』の住人と化してしまうのかもしれませんね。
人は、人として生きていくために、“繋がり(縁)”を持つことを“努力して”いかなければならないのかもしれませんね。
命にも関係してくるんですね。
人との繋がり、『縁』は・・・。
私たちは、また新たな社会問題を認識しました。
『無縁社会』という言葉があり、そこの住人が存在することを・・・。
将来は、もっと単身化が進むということでした。
その住人たちを、私たちと同じ社会に呼び戻し、また新たな住人となる人が出ないよう、考えなければなりませんね。
『縁』を“求めて”いきましょう!
ある住職が言われた言葉です。
「私たちは、あらゆる『縁』に包まれている。」
「ただその人の人生に対する燃え方によってどの『縁』と結びつくかが変わってくるのではないか。」
私も、同感です。
いろんな『縁』が沢山自分の周りにあると思います。
熊本でも、『無縁社会』は存在しているのでしょうか・・・。
『縁』を自己の利益のために利用する人もいますが、『縁』は人々の生きる力にもなっているんですね。
やはり「人は一人では生きていけない」ということなんでしょうか。
『縁』、“繋がり”をこれからももっと長く大切にしていきたいと思いました。